お伊勢参りのブラタモリタモリ&近江友里恵アナは江戸時代のルートでお伊勢参りを体験する。
旅のお題は”人はなぜ伊勢を目指す”
御師(おんし)と呼ばれる案内人の導きで伊勢を楽しんでいた江戸の人々。文化6年(1809)年に旅行した牧野家の道中記が発見された。今も1軒だけ残る御師丸岡家の記録にもその記述があり、17人が5泊6日したお伊勢参りだった。当時、神楽を奉納していて、最上級ランクの神楽はなんと6時間もあったのでその時の食事を再現した。
丸岡家最古の記録にあった300年前の献立を再現する。煮物、なます、さしみ、汁物、アワビ・・・13品?のフルコース
鯛の刺身を煎り酒でいただく。酒に梅干しなどを加えて煮詰めた調味料でまだ醤油がなかった時代のものだそうです。
[タモリ談]鯛の刺身を醤油で食べると醤油の味しかしないので、なんとかならないかと行き着いたのが煎り酒・・・鯛の味がちゃんとするでしょ?
「はい、タイの味がしました」「・・・」「スミマセンシ、ンプルな食リポートで」「ダメだね!食リポートは!」近江アナの食レポはこれからのようですね。
「なます、汁、煮物、めし・・・」記録には誰がいつ何を食べたか、配膳の仕方まで、記録が細かく書かれている。
[タモリ談]3つ星レストランなんかで、3年前来られた時はあちらの席で○○をお食べになりましたので、今回は変えましょうと言われるのをよく覚えているなとびっくりしたが思ったけど、裏は全部記録で、
それを何百年も御師がやっていた 御師エルジュ! 御師+コンシェルジュ
5泊6日 17人 60両 [タモリ談]1両10万円と計算するんですけれど 600万円~1000万円位!大豪遊!!(@_@)
丸岡家は文化6年(1809)に町内会から25両借りている。文化6年は牧野さんが来られた時で60両払ってもらったも足りなかったのか、それもと仕入れ費用??
牧野家の記録には夫婦以外は帰ってきていなかった日もあるという記録もあり・・・
”聖がアレば俗がある”
山田のエリアに外宮、宇治のエリアに内宮があるが、その途中に古市という一大歓楽街があり、遊女1000人もの遊郭があった・・・江戸や京都に次ぐ遊郭と言われていた。ここに寄るのが伊勢参りの楽しみで、女性も楽しめる芝居小屋や料理旅館も立ち並び娯楽が充実していた。
江戸時代創業の老舗旅館”麻吉”を訪ねる。料理旅館で、建物は国登録有形文化財、当時の賑わいを残す唯一の建物で、清水寺本堂などが有名な懸造りという、傾斜が急な崖や渓谷の上に建てる建築様式で建てられています。
創業当時から景色を眺めながら料理を楽しむ旅館だったそうです。
標高が高いことを売りにしていて、最上階から景色を眺める・・・山桜やうぐいすの鳴き声も!お伊勢参りの後にこの場所に上り詰めて、お酒を飲んで伊勢音頭を歌ったり踊ったりして、楽しい時間を過ごすのが当時の憧れだったんだそう。
[タモリ談]SKGだね! 参拝・観光・娯楽で至れり尽くせりなのがお伊勢周り、そりゃー俺も行くよ!
川沿いに問屋が立ち並ぶ河崎へ移動・・・全国から商人が門前町に卸す食材や日用雑貨船に来る賑わった街だった。
その街で使われていたのが日本最初の紙幣 山田羽書(やまだはがき) 金や銀などへ換金できる紙幣だった。これをモデルに他の地域でも藩札ができた。
7年に1回交換するのが信用の元で、偽札まであった・・・250年以上途切れること無く発行された山田羽書そこに、先ほどの御師、丸岡さんの名前が・・・御師が中心となって発行された紙幣が山田羽書なんだそうです。
経済を支えたのも御師だった。旅行業から金融業まで御師が握っていた!しかし世が代わり、明治4年御師は廃止
御師の時代以降の伊勢の整備は、御幸道路ができた。明治天皇が伊勢神宮を参拝するため明治43(1910)年につくられた道路、国道23号は伊勢が終点、戦前は国道1号でした。
お伊勢参りの新玄関口宇治山田駅は豪華な洋風建築で駅を見るために来る観光客までできた。
路面電車風のバスがホームへ上がる仕組みになっていた。そのバスの転車台が昭和36年から平成5年まで使われていて、鉄道とバスを効率よく結びつけた。
おはらい町の賑わいはここ20年位で、それまで看板が立ち並び寂れていました。江戸時代の門前町のイメージにするため、伊勢市町並み保全事業がすすめられて、年間20万人まで落ち込んだ観光客がいまや年間500万人にまでなりました。
遷宮により20年に1度立て直す伊勢神宮の式年遷宮にあわせて、20年に1度都市や町を整備するという仕組みができていて、こういったところは他にはない。
20年に一度の「式年遷宮」に合わせて人を呼ぶために整備されてきたことが、明治から平成まで脈々と受け継がれるお伊勢参りの真実だった・・・”人はなぜ伊勢を目指す”