ブラタモリ たらい舟を漕いでゴキゲン♪
”黄金の島佐渡”は”キセキ”の島
まち歩きガイド
石川 貴美子さん
生まれも育ちも佐渡、土産物店に勤めながら佐渡の研究
江戸時代から平成元年まで、この島はずーっと金をとり続けていた。
相川地区へ、
”黄金の島”始まりの場所へ
金を採るために、山が上に口が空いたような、
道遊の割戸(どうゆうのわりと)
1601年に採掘開始
幅30m、長さ70m掘られた。
江戸時代は手掘りです。
山に対する欲望が
山を変えちゃったんだね~
道遊の割戸(どうゆうのわりと)
のふもとへ。
掘られた跡を見ると、右側に白い筋があり、これが金鉱脈だそうです。
金は白い石英と一緒に見つかることが多いそうです。
地中に多く含まれる2酸化ケイ素の結晶で地下水に溶け出し冷えて固まる。
周りに金や銀などがあると、石英に黒く封じ込められて金鉱脈になるそうです。
普通、1トンの石を掘って、金が2~3gあると採算があうらしい・・・
しかし佐渡金山は5gあったらしいです。
佐渡の地形が関係している。深い谷があるということは、川がある。
川があるということは、噴火した金が流れる。
金はすごく重いので、土砂だと普通沖の方に流れるんだけれど、
金は途中で止まってた。
金を見つけられる地形というのが、多くの鉱脈を見つけた元になった。
宗太夫抗(そうだゆうこう)
江戸時代に掘られた金山の坑道で、現在は観光コースとして公開
掘っている人がタガネみをカナヅチで叩いている人形があるのですが、
タガネをペンチみたいので挟んでいる。
タガネを手で持って叩けばいいのに?
と試してみると挟んだほうが
また、タガネが短くなっても叩けるのですが、
なんと、このタガネは2日で無くなるそうです!
佐渡の岩盤は固いので、地下650mまで掘り進めることが出来た。
自由に撮れたということはたくさんの金を産出した。
岩盤が固いことも佐渡のキセキだった・・・
アリの巣のように掘られた坑道は全部つなげると約400kmになる!
佐渡から東京までくらい・・・
相川の海岸へ
佐渡市ジオパーク推進室
市橋 弥生さん
子供の頃からの筋金入りのジオ女子だそうで、学校帰りに石英を拾いながら買えるのが趣味だったそうです。
岩盤が固いのは古い、3000万年前ユーラシア大陸のヘリで起こった火山活動で佐渡の元ができて、300年前
圧力や、水分がぬけたりして、佐渡の硬い岩盤を作った。
球顆流紋岩(きゅうがりゅうもんがん)
岩石が冷えて固まる時に、石英が入り込みできた。
石英の丸い粒
江戸時代にこのキセキの石を切り出した。
当時の地図を見ると「大工町」と言われる。
金山で働く人のことを技術者なので大工といったそうです。
鉱山で働く人の街だった。
金山から海に続く細い尾根道の先に大工町があった。
この道を中心に金山で働いていた人たちの街が広がっていた。
いいな~海が見えて、ずっと人家がありますね。この先ね
金山が発見されるまで、14~15軒しか家がなかったが、一気に人が増えた。
当時のの絵を見て、日本橋じゃないんですか?とタモリ
人口はなんと5万人だとか江戸初期に巨大都市が出来た。
地図を見て大床屋町を目指す。そんなに床屋が並んでいたってしょうがないもんね・・・
まち歩きガイド石川さんのおじさんの家に、キセキの石の痕跡があるそうで、整地をしていたらあちこちから石が出てきた。
これ、石臼ですよね・・・
海岸で見つけたキセキの石は鉱石を砕く時に使った石臼に使われていた。
かたい石英が中につぶつぶ入っているので、鉱石を潰しやすい。こんな石はない、しかも固い。
硬さは鉄ぐらいあるからねとおじさん。ハンマーで叩いても跳ね返るからね。
硬い石英のつぶが金鉱石をグリップして効率よく金がとれた。
町の名前”大床屋”は金の加工に関係する名前だった。
床は火床の”床”だった。「精錬ですよね」とタモリ
火床→石臼で砕いた鉱石を熱して溶かす時に使った炉
金を取り出したのこりのカスは”カラミ”と呼ばれた。
カラミは欲しい人にあげちゃうらしい・・・
「歴史的なものですけどね」とタモリ
鉱石を見てほしそうなタモリにお送りしますとのことで・・・
佐渡奉行所に金は集められた。
最後に一手間を加えるのがここ。
長ーい 佐渡金山絵巻には金の生産過程が詳しく書かれている。
金山を管理した佐渡奉行が書かせたもので、20mもある。
江戸時代山で採掘された鉱石は、街で精錬され、奉行所に集められて加工された。
江戸初期は国内の金の半分くらいが佐渡で作られていた。
奉行所の中で小判まで完成させたところは佐渡しか無い。
段丘ですか、海食崖(かいしょくがい)ってやつですよね・・・(波の侵食で陸地が削られてできた崖)
「段丘のへりですね」
段丘の最後の崖の横に奉行所が作られた。海側は防御は完璧で、奉行所の左右は両方買わで谷が入っている。
「城の作り方と一緒ですね」これがやっぱり佐渡のキセキ
金の生産量のグラフを見ると、1900年から増えだし、ピークは1940年(昭和15年)の1,537kg
昭和になって金の生産量が爆発的に増えた場所を案内すると言われて来たのは海・・・?
「海でしょココ」
「ええ~ちょっと見当つかないな~」珍しく困惑するタモリ
一面、石だらけの海岸。
「この中(白い石)に金が含まれているとしても、大したことないんじゃないですかね!?」
(金鉱脈は白かったですよね~)
実は、江戸時代に質が悪くて海岸に捨てられていた金鉱石、
これを最新の技術でやると結構の金がとれた。ここから撮れた金の量が200億円くらいあった。
これがキセキ的な浜
ここから、精錬工場まで、線路が引かれてトロッコ列車で金鉱石を運んだ。
まさに、黄金の浜、ゴールドコースト!
昔の写真を見て撮影場所の方に話を聞くと、毎日トロッコ列車を見ていました。
マニアですね~この魅力をわかるっていうのは・・・日本初の鉄女ですよね・・・とタモリ認定!
捨てた石の浜に立っていた家々をどかしてまで採取していた。
東洋一と言われた金の加工場、”北沢浮遊選鉱場”1940(昭和15)年に完成、化学薬品を使い月5万トンの金鉱石から金を分離した。
この地形がキセキ
高低差を利用して鉱石を下に降ろしながら小さくする。
段丘のへりですね・・・ダカラこういう工場の形にできた。
金鉱石が集まる浜があった。加工上に適していた段丘があったこと
それが再び佐渡を黄金の島にした。
まさに、これが最後のキセキ
最後に、今日歩いたところを一望できるところへ
”黄金の島佐渡”は”キセキ”の島
1日、あの範囲をグルグルやっていたんですね・・・3km圏内
400年間、黄金の島だった”佐渡のブラタモリ”
タモリさんと近江アナが息がピッタリあってきた感じですね・・・(^o^)