ブラタモリ!大阪城、真田丸スペシャル!
旅のお題は「大阪城はなぜ難攻不落」
江戸以前は「大坂城」明治以降は「大阪城」とかくそうです。
堀幅平均して70~90 広いところでは100m超え
石垣は総延長が12km!
1583年 豊臣秀吉が天下統一の拠点として築城した大坂城
宣教師が日本中で最も堅固で難攻不落だと報告しています。
【イエズス会 日本年報(バシオ書簡)】
大阪城が難攻不落の城というのを示した戦いが、
真田丸が造られた、”大阪冬の陣”です。
豊臣10万、徳川 20万の軍勢に囲まれたが、
徳川側は一歩も入れず・・・
しかし、今見ている大阪城は徳川の大阪城で、
豊臣の大阪城は徳川に埋められてしまった。
今の建物は、昭和6年に復元した建物です。
大坂城天守閣の外にある、丸い調査孔・・・
いつもは鍵がかけられている蓋を開けて、
7m以上地下に潜って撮影・・・
豊臣時代の石垣があります。
7m下に石垣のてっぺんがある。
昭和34年に学術調査をした際に発見された。
一番高いところに1m土を盛って、
完全に豊臣の大阪城を地中に埋めごろしした。
記憶さえ完全に消してしまおうということなんですね~
江戸時代の中頃になると、徳川幕府が全部築き直したという記憶が、
全く忘れ去られた。
昭和34年の学術調査が行われるまで、豊臣の城だと思っていたのが、
徳川の城だったということがわかったのだが、
徳川大阪城だということがわかると、大阪市民が卒倒する?ということで?
いろんな判断で、
発表をしなかったそうです(・_・;)
前回のブラタモリで、
大坂城は低湿地帯に囲まれた、
台地の上に立っている、
天然の要害の最高の立地で、
最高の立地だったとやりましたが、
京都側から入った徳川軍
京橋駅あたりに、大阪冬の陣の戦いが行われた場所があるそうです。
難攻不落を体感する場所・・・?
洪水が繰り返されて土砂がたまった自然堤防が細長く、
現在道路のところだけが高くなっています。
鯰江川だった昭和47年に埋められた場所が低いです。
現在の道路、自然堤防の上でズラッと三千の兵が、
並んだ感じで戦ったそうです。
なんと攻めにくいわけですね・・・
大坂城の南側に細長く広がる台地に、
城下町が整備されていて、
大坂城南側に徳川軍は10万の兵を集めた。
城下町の道路だった現在の道路を大坂城に歩くタモさん、
気分は徳川軍・・・
藤堂高虎軍がここに布陣していたのでは?
ということで、気分は藤堂高虎?!
下がって上がっています。
幅は30~40m、高さ10m以上の巨大な空堀があった。
3F建ての建物がすっぽり入り、さらに、空堀の向こうには、
巨大な土塁があったので、徳川軍は土塁の向こうには進めず・・・
台地の南側を切断して作られた空堀、
さらに低湿地三方にある水堀、
城下町は堀や土塁ですっぽり囲まれていました。
惣構(そうがまえ)の城作りといいます。
空堀は複雑な形にしていて、
コの字になっているところもあります。
弱点はここらへんだと守りやすくしている。
台地の南側の空堀がカクカクしているのに、
”田島北ふれあい広場”という看板が立っているあたりが、
空堀の痕跡があるところだそうです。
難攻不落の大坂城、台地の南側を切断した巨大な空堀
南側の台地の西側がカクカクしているのに、
東側の直線的な堀のあたり、このあたりに真田丸が造られた。
大坂冬の陣で最も徳川軍が苦戦した真田丸は、
冬の陣の後、徹底的に破壊されてしまったので、
正確な形が不明で
数少ないヒントが、
豊臣方の武士の残した記録で、
”東八町目之御門の東、
一段高き畑御座候を、
(略)
是を眞田が出城と申候、
「大坂陣山口休庵咄」”
東八町目の門の東に、
一段高い畑があり、
これを真田の出城という
東八丁目の門のあったあたり、
上町筋
堀の曲がったところを歩いていくと、
一段高いところがある。
高いところ約100mから覗きますと、
学校のグランドのあたりでは?
真田丸を書いた絵図は直線や円で単純化されていますが、
今年見つかった絵図
「極秘諸国城図」より「大坂真田丸」
松江歴史館所蔵
自然の地形は緑、
堀はオレンジと性格っぽい
地形図と絵図を重ねると一致する!!
周囲を回って場所を確かめます。
真田丸の南側
この堀広さ二十四五間ほど
(約45m)
と書いてあるのですが、
南側の痕跡はわからず・・・
しかし、西側、北側、東側は、
まあまあ残っている・・・
南側の堀は、
徳川方に1万人もの死傷者が出ていると言われている場所で、
徹底的に跡形もないようにしてやれと
相当な痛手で痕跡を消して、
後世に語り継がないでほしい・・・
と痕跡を消されてしまった?
真田丸の跡地に立つ大阪明星学園の屋上へ・・・
心眼寺周辺とか、回ってみたいですね~
明日の、「真田丸」が楽しみ~