今日は富士の麓でブラタモリ~
「富士山最大の玄関口はどうできた?」
年間20万人の富士山登山者のうち6割が山梨側から登る。吉田ルート
江戸時代に富士山を信仰富士講が流行った
世界遺産、忍野八海は江戸時代に富士講の人が登山の前に身を清めるみそぎをするために、8つの池を整備した。
富士山最大の玄関口は、北口本宮富士浅間神社が起点!
上吉田村、御師の街・・・
表は商店で、奥の方に御師の家の宿泊施設で、年間8000人の登山客を受け入れたそうです。
33回登山した人の石碑が御師の家に残されています。
御師団という人たちが、今も支えているそうです。
45回、55回の石碑が・・・
現役の御師 上文司さん、18代目
浅間神社の宮司も務める。
現在も3つの富士講とお付き合いがあるそうです。
御師の家には滝があり、みそぎをしてから宿に入るんだそうです。
びっしりと掲げられた額がズラリ、浅間神社に神楽を奉納した記念の奉納額
かつては御師が神楽を舞ったそうです。
御師が弁当を持たせた。今もおにぎりを握っているそうです。
1860年に作られた版木をする摺り師タモリ・・・
60年に1度の庚申かのえさるの御札を擦ります。
富士山の神々の下にはサルが描かれています。
60年に一同の庚申の年に富士山は生まれたとされて、
ご利益を求めて、1860年には押すな押すなの大盛況。
宿泊名簿は倍以上の厚さがあります。
通常は2合目までしか女性は登れなかったのですが、
1860年 御師のお陰で女性も山頂にのぼれるようになったそうです。
富士山の侵食現象として、
雪が溶けて土石流が流れる、雪代(ゆきしろ)という現象が。
古吉田から450年前、上吉田に街が移った。
雪代と雪代の流れの間に街ができた。
以前のところは、雪代のかーぶがあり、
毎年のように、雪代のカーブが決壊していたのでしょうね。
溶岩の上に土砂がたまり、
溶岩の下に水路を掘った。
用水トンネルに潜入・・・
溶岩の下を掘って、川から水を引いて、上吉田の街を潤して、
御師の家で滝も流れて行水ができるようになったそうです。
富士吉田にそんな歴史があったんですね・・・